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大手町が至近距離とは思えない庭園と工芸品のような精巧な石垣──東京にみつける江戸 第21回 - GQ JAPAN

再現された将軍の城の庭園

二の丸を本丸から下った汐見坂から白鳥濠に沿って南に歩くと、大手門から本丸に向かう途中で前を通った長い百人番所が見えてくる。その少し手前の大手三の門、すなわち御三家以外の大名はそこで籠を降りなければならなかった下乗門のすぐ手前に、二の丸御殿への入り口だった銅(あかがね)門の石垣がある。ここも元来は枡形虎口で、残念ながら渡櫓の南側の入り口と北側の枡形の石垣しか残っていないが、大手三の門と並べるように2つの堅固な枡形の門を置いた、用心に用心を重ねた守りには、あらためて驚かされる。

また、残された銅門の石垣は、大小の築石を色彩もさまざまに隙間なく積んであり見応えがある。築石の表面も化粧が施され、ノミで細かく模様を刻んだ「はつり仕上げ」と、無数の縦線を入れた「すだれ仕上げ」がともに観察できる。

二の丸の東側には二の丸庭園がある。ここは昭和42(1967)年に本丸、二の丸、三の丸を皇居東御苑として公開するに当たり、発掘調査の成果と9代将軍、家重の時代の絵図面を参考に復元された池泉回遊式庭園だ。回遊式とは、たとえば京都の龍安寺の石庭のように定点から眺めるのではなく、なかを歩いてめぐりながら楽しむスタイルを指す。浜御殿や小石川後楽園など、この連載で今後紹介するものを含め、社交の場でもあった江戸時代の大名庭園は(将軍家のものも含め)、基本的にこのスタイルだった。

滝や石橋、州浜などは、図面にできるだけ忠実に再現されているようだ。八重桜、ツツジ、花菖蒲、モミジなど四季折々の植物を楽しめる。また、隣接する二の丸御殿の跡地は雑木林になっており、大手町の高層ビルから至近距離であることが信じがたい。

二の丸の周囲を囲んでいた濠がここには残る

二の丸庭園を周回し、本丸に続く梅林坂の下に出たら、左右に梅林を眺めながら歩くと下梅林門跡の枡形虎口を通る。この枡形は約60メートル×25メートルと東西に長く、二の丸から進むと最初に渡櫓台の石垣を左右に眺めることになるが、まるで手の込んだ工芸品のように非常に精巧な加工が施されている。切込接ですき間なく積まれたうえ、隅角部は「江戸切」といって稜線が鋭く切りそろえられている。さらに築石の接合線がノミで溝状に切込まれ、石がやわらかくふくらむように仕上げられた「谷目地」になっている。

下梅林門を通り抜けると、二の丸と三の丸を分ける天神濠が右に眺められる。この堀は、かつては下乗門の前を通って、内桜田門(桔梗門)の枡形の西側に延びる蛤濠まで続いていたのだが、大正8(1919)年、宮内庁の諸施設を建設するために、500メートル余りにわたって埋め立てられてしまった。現在はここから南に60メートル、東に折れて200メートルほどしか残っていないが、かつての二の丸はこの堀で三の丸との間を明確に分けられていたのだ。

また、高麗門跡の先の土橋の上から天神濠の石垣を見ると、多数の刻印を見つけることができる。一方、土橋の左側は、北桔橋門前まで本丸の高石垣の下に広がる平川濠だ。橋を渡ると三の丸で、堀に沿って左折すると、大手門、北桔橋門と並んで皇居東御苑の出入り口になっている平川門にたどり着く。

PROFILE
香原斗志(かはら・とし)
ジャーナリスト
早稲田大学で日本史を学ぶ(日本史専攻)。小学校高学年から歴史オタクで、中学に入ってからは中世城郭から近世の城まで日本の城に通い詰める。また、京都や奈良をはじめとして古い町を訪ねては、歴史の痕跡を確認して歩いている。イタリアに精通したオペラ評論家でもあり、新刊に「イタリア・オペラを疑え!」(アルテスパブリッシング)がある。

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November 12, 2020 at 06:00AM
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